認知症、ADHD(発達障害)の家族が進める、断捨離の歩き方

2018年ももう2月になりました。ブログが更新できておらず、見てくださっている方には申し訳ありません。

さて、2018年の年初から、私は何をしていたかというと、認知症初期段階にある母の介護申請、デイサービス(通所介護)の具体的な開始手続きを、新たに決まったケアマネージャーさんと進めつつ、大多数の時間を「実家の掃除」に充てておりました。

約1か月をまるまる使って今日に至るわけですが、まだ全体の2割程度しか作業完了していないのが実情です。

 

私、前職の職場のあった京都から、実家のある東京に引っ越して、新生活をスタートさせたい!という一心なのですが、それを阻んでいるのが、実家の母が何年もかけて着々と蒐集し続けた、ありとあらゆるモノの大群です。

あれです、いわゆるごみ屋敷ってやつですね^ ^

 

好き活!を始めるにあたって、なによりも大切にしたいホームベースたる自宅。

いまの私には、安心、安定して作業を進められる場所がありません。

 

何年も放置され、母は汚し、父は放置してきた実家の断捨離に、いま伝家の宝刀(退職+介護独立)を抜いて、敢然と立ち向かっております。

そんな私の母は、ADHD上がりの認知症(確定は今年3月の医師診断を待つ必要がありますが)であり、もはや自分で「モノを片付ける」という思考は働きません。

 

世の中、断捨離、ごみ屋敷、認知症、ADHD(発達障害)、という個々のワードはよく耳にするのですが、ひとつの複合事例としての「認知症、ADHD(発達障害)の家族が進めなければならない片付け」にはあまりスポットライトが当たっていない気がします。

 

もし世の中に同様の環境に置かれた方がいれば、、、との思いから、私の進める断捨離についても備忘録を残そうと思っています。

ざっくり以下の内容でまとめるつもりです。

1.ADHD(発達障害)の汚部屋化の歴史

2.ADHD+認知症で何がおきる?

3.ADHD+認知症の汚部屋、ごみ屋敷は片付けちゃダメ!?その理由とは?

4.家族だけ(本人助力なし)で進める断捨離の具体的な進め方

 

雅(みやび)の文化、鄙び(ひなび)の文化

最近、本サイトの広報を兼ねて、SNSを始めました。
私自身、つい最近までLineすら使っていなかったほどのSNS難民でして、facebook,twitter,そしてこのブログといった分野で、多くの人と関わっていくことは、とても新鮮な体験です。

(宣伝で恐縮ですが、twitterをされている方、本HPの下側にSNSリンクがありますので、よろしければフォローくださいませ(^^♪)

いろいろと書いていくことになるかと思いますが、自分なりのこだわりというか、基本線といいますか・・・これは忘れないようにしたいな、という心がけを、自分自身のために先立って書いておこうと思います。

それは大したことではないのですが、極力ありのままを書いていこう!ということです。高尚なこと、低俗なこと、はたまたある勢力の意見があれば、それに対抗する意見・・・と、いわば「理想的なマスメディア像」に近い姿です。もちろん、その環境条件のなかに、自分の意見を落とし込んでいくことも、独自サイトとしてはぜひ進めていきたい内容です。

SNSなので、より個人的な面に絞って考えると、いまの生活を必要以上に良いものであると見せたくない、という思いになります。変に見栄を張るのは疲れますからね。。。

インスタ映えという言葉も、なんとなく少し下に見た言い方のような気がするのです。あなたの生活、そこまでキラキラしてないでしょ、って言われているような。少し前に、これを象徴した絵が話題になっていました。

https://twitter.com/avogado6/status/919906539254702081

twitter@avogado6さんより引用

こちらの絵を拝見したとき、何やら抱えていたモヤモヤが、すっと自分に降りてきたような気がしました。

世の中、いい面もあれば、悪い面もあります。例えば、今私は独立して非常に自由気ままですが、その反面、金銭面での不安も確かにありますし、社会的なステータスの下落は避けようのない運命と諦めている部分もあります。

それらすべてを包括したものが自己であり、そこから何かを生み出してこその好き活だと思っています。ですから、独立を志して同じように努力される方の指針となるためにも、極力いい面だけ書くことはせず、嫌だと思ったり、不安定な部分も記しておきたいです。

 

昔、私の通っていた学習塾に変わった先生がいました。

「自分は平安時代の生活について研究しているが、いわゆる宮中のやんごとなき『雅(みやび)』な生活には、まったく興味がない。調べれば、いくらでも資料はある。

でも、そんな生活をしていたのは、ほんの一握りの有権者階級の人たちの話。庶民の生活は別にあって、しかもそのふれ幅は甚だ大きい。時代の大多数を生きた庶民が連ねた『鄙び(ひなび)』の歴史にこそ、文化の主流はあるし、現実味があってとても面白い。現代を生きる庶民のひとりとして、俺は隠されたひなびの文化を追い求める」

当時小学生だった自分は、この一風変わった先生の毒牙にかかって、あっという間に洗脳されてしまいましたが・・・いま思い出しても、カッコいい言葉だと思います。

私のブログも、生活の雅だけではなく、鄙びにも大いに踏み込んで、日々を記録したいものです。